再開館3周年を迎えた八戸市美術館が、子どもたちの手による「教育版画」を展覧する「風のなかを飛ぶ種子 青森の教育版画」展を企画した。教育版画は、戦後民主主義教育を模索する中で版画を通じた「人づくり」として、1950〜90年代に全国の小中・養護学校で取り組んだ創作活動だ。今回は同館のコレクションに五所川原市教育委員会の所蔵品や郷土の作家の作品を加えた約260点を紹介。11月4日に本展と専門家を招いた講演会を取材した。
展覧会は、師範学校教師も務め、青森県の美術教育の礎を築いた版画家の今純三(考現学で知られる今和次郎の弟)の作品を展示した「種」から始まり、今に学んだ教え子たちと彼らが指導した子どもたちの作品が並ぶ「芽吹」、50~70年代に八戸で制作された150点以上の作品が並ぶ「開花」など5章で構成されている。
身近な対象に向き合い、子どもたちが自ら描き・彫り・刷ったという作品は、労働者、漁港の生活、大海の景色、ウミネコなどどれも力強く印象的だった。八戸市の中学校で美術教員を務めた坂本小九郎(1934年生まれ)が指導した作品群を展示した「開花」の章は圧巻で、主題も公害や戦争にまで広がり、陰影に富む細密な白と黒の表現は目を見張るものだった。特に市立湊中学校養護学級の生徒が共同で制作した『虹の上をとぶ船』シリーズは、ペガサスなど空想上の生き物と人間の生活の一コマが共存し、これまでにない物語性のある世界を表現。その内の1点は宮㟢駿監督の映画『魔女の宅急便』の劇中画のモデルに用いられた。
青森の版画文化を代表する棟方志功の板画、版画家・教育者の大田耕士が推進した教育版画運動の資料、青森県の教育版画を牽引した人々の相関図なども展示され、最後は、アーティストユニットのTHE COPY TRAVELERSと市内小学生の協働作品で締めくくられていた。
本展を企画した高橋麻衣学芸員は、「大田さんの手元には全国から子どもたちがつくった多くの版画と文集が送られてきて、版画の多くは五所川原市に寄贈されました。展覧会のために調査を行い、作品を借用できたことで包括的な展示を実現できました。青森の教育版画が人と人との繋がりの中で育まれた軌跡を伝えたくて、『人』を切り口にしました」と話す。
講演会の講師を務めたのが、町田市立国際版画美術館学芸員の町村悠香だ。同館は2022年に「彫刻刀が刻む戦後日本─2つの民衆版画運動」展を企画し、戦後版画運動と教育版画運動を取り上げて話題となった。
「戦後、日本に本格的に紹介された魯迅による中国の木刻運動が契機となり、2つの民衆版画運動が起こったと考えています。教育版画運動は『生活綴方運動(生活を見つめて文章で表現することで社会や現実を認識する力を鍛える)』の影響を受けて版画を通じた人づくりを目指したもので、技法、技術、芸術性とは異なる価値観の軸があります。青森では今さんによって教育版画が盛んになる土壌が育まれ、坂本さんが生活リアリズムからファンタジーの方向へと飛躍させた。その根底には、就職・進学組に分断され、競わされる子どもたちの状況に抗いたい思いがあったのではないでしょうか」
八戸市美術館の教育版画コレクション548点は、坂本が旧市美(1986〜2017)に寄贈したもので、全コレクション約3,000点の6分の1を占める。2021年の再開館後の大規模展示は本展が初めてとなるが、『虹の上をとぶ船』をモチーフに作曲家の井川丹さんが音楽インスタレーションを市内小中高生と制作して展示するなど、利活用してきた。佐藤慎也館長は、「当館はアートを介してさまざまな人が出会い、繋がる場になることを目指しています。教育版画のコレクションはそうした実践がこの地にあったことの証です。今後もその魅力と価値を発信し、現代の子どもたちとリンクしたプロジェクトにも取り組みたい」と期待を寄せていた。
無名性を称賛した民藝運動が注目され、西洋中心の美術史の書き換えが進むなか、地域の中でアノニマスな子どもたちが創り出した教育版画の意義と輝きは、増していくのではないか。そんな予感を強くした展覧会だった。
(美術ジャーナリスト・永田晶子)
●風のなかを飛ぶ種子 青森の教育版画
[会期]2024年10月12日〜25年1月13日
[主催]八戸市美術館、青森放送
●教育版画運動
版画家・教育者の大田耕士(1909〜98)を中心に1951年に東京で設立された「日本教育版画協会」が推進した民間教育運動。大田らは、子どもの人格形成に寄与する教育版画の普及を目指して各地で講習会を行い、教員の実践を機関誌と研究大会で共有し、全国小中学校版画コンクールを開催するなどの活動を展開。全国的な広がりを受け、58年に改訂された国の学習指導要領(61年施行)において版画づくりが小学校全学年に推奨された。その後も各地でユニークな実践が行われたが、大田の死去や学校の美術授業時間の減少により90年代以降は衰退した。