講師 吉本光宏
(ニッセイ基礎研究所 主席研究員・芸術文化プロジェクト室長)
日本の創造都市の代表例を選ぶのは容易ではない。文化庁長官表彰(文化芸術創造都市部門)の受賞団体数は24、2013年1月に設立された創造都市ネットワーク日本の加盟団体数は22。それぞれ異なるアプローチから創造都市の政策や事業を展開している。その中から、文化・芸術による都心部の活性化からスタートした横浜市、伝統工芸をはじめとした手仕事の可能性を前面に押し出す金沢市、そしてアートNPOが主導する芸術祭を核とした別府市、の3例を紹介することとしたい。
●歴史的建造物の民間開放からスタートした横浜市の創造都市政策
「我々が議論しているのは、まさしく創造都市の考え方ではないだろうか─」。「文化芸術・観光振興による都心部活性化検討委員会(2002~03年)」での議論の一コマだ。この委員会は04年1月に「文化芸術創造都市─クリエイティブシティ・ヨコハマの形成に向けた提言」を中田前市長に提出、横浜市の創造都市政策がスタートした(*1)。その中の3つの戦略プロジェクトのひとつ「クリエイティブ・コア─創造界隈形成」の一環として同年3月にオープンしたのがBankART1929である(*2)。
「民」との協働による「都心部歴史的建築物の文化・芸術活用実験事業」によって実現したものだ。横浜市には、横浜美術館やみなとみらいホールを運営する全国でも最大規模の芸術文化振興財団がある。にもかかわらず、アートNPOをはじめとした民の発想やアイデアに新たなアートセンターを託し、従来の枠組みを超えようとしたこと。それが横浜市の創造都市の第一歩だったと言える。
以降、遊休施設等を活用し、次々と創造界隈拠点を拡充してきた(*3)。市だけではなく、民設民営の取り組みを促進するため、芸術不動産事業をスタート。その結果、横浜の都心部には民民ベースでもこれまで44拠点に200組のクリエーターやアーティストが新規参入した。
こうした動きと並行して、横浜の創造都市の大きな転換点になったのは、中区の初黄・日ノ出地区、寿町に対象を拡大したことだ。前者は、違法売買春の飲食店が集積するエリアだったが、06年のBankART桜荘の開設以降、アートによるまちづくりを進め、08年からは「黄金町バザール」というアートフェスティバルを毎年開催。今では33軒、114室のスタジオ施設が設けられ、1年以上の長期滞在者を含め、常時40~50組のアーティストやクリエーターが滞在、制作活動をするまちに変貌した。
一方、日本の三大ドヤ街のひとつ・寿町では、05年に民間主導で簡易宿泊所の空室を一般向けの安価な宿に転用するホステルビレッジ事業がスタート。08年には同地区でさまざまなアートプロジェクトを展開する「KOTOBUKIクリエイティブアクション」も始まり、ドヤ街はその姿を変えつつある。この2つのエリアはともに横浜市の負の歴史が刻まれた地区である。脱工業化によって疲弊した都市とは異なるが、いわばマイナスの状態からアートをテコに再生を図るという点で、欧州の創造都市に通じている。
横浜市の幅広い創造都市事業の中でも、最も成果を上げているのは、こうしたアートによるまちづくりであろう。その背景に、日本で初めて都市デザインを導入した横浜市の蓄積があることも見逃せない。
*1 この提言書には4つの基本的な方向と数値目標が示されていた。
1. アーティスト・クリエーターが住みたくなる創造環境の実現(5,000人のアーティスト・クリエーター)
2. 創造的産業クラスターの形成による経済活性化(30,000人の創造的産業従業者)
3. 魅力ある地域資源の活用(100カ所の文化・観光集客装置)
4. 市民が主導する文化芸術創造都市づくり(350万人の文化鑑賞者)
*2 旧第一銀行、旧富士銀行の建物を活用し、前者はBankART 1929 Yokohama、後者はBankART1929 馬車道としてオープン。その後、東京藝術大学大学院映像研究科の開設に伴って、2005年1月に馬車道の機能を日本郵船海岸通倉庫へ移転し、BankART Studio NYKを開設。現在BankART1929はこのNYKに集約されている。
*3 北仲BRICK &北仲WHITE(旧帝蚕倉庫)、山下ふ頭3・4号倉庫(よこはまトリエンナーレ2005で活用)、万国橋SOKO、ZAIM(旧関東財務局)、急な坂スタジオ(結婚式場であった旧老松会館)、本町ビルシゴカイ、BankART桜荘、Koganex-Lab、創造空間9001、黄金スタジオ・日ノ出スタジオ、ヨコハマ創造都市センター、象の鼻テラス、新・港村など。
一部はBankART1929のイニシアティブで実現したもの、また期間限定で現在は閉館したものも含まれる。象の鼻テラスは新設施設。
●“Craftism”憲章を軸に創造的展開を図る金沢市
2009年6月、金沢市はユネスコの創造都市ネットワークのクラフト分野で登録認定された。その理念とも言えるのが、経済団体、工芸団体、市民団体および行政から成る金沢創造都市推進委員会が09年に制定した”Craftism”憲章だ。文化と産業の連環、次世代への継承、国内外への発信、の3つが掲げられている(*4)。そしてそれに呼応するように、①文化とビジネスをつなぐまち、②創造の担い手を育てるまち、③世界を引きつけるまち、の3つが創造都市・金沢の目指す将来像となっている(*5)。
金沢市と言えば、元紡績工場を改修し、24時間365日オープン、市民運営で知られる金沢市民芸術村(1996年開館)、SANAA設計のユニークな建築、建物と一体となった体験型コレクションなどで年間150万人が来館する金沢21世紀美術館(04年開館)など、日本の文化行政を牽引してきた実績がある。しかし、そうした近年の取り組みではなく、伝統工芸や和菓子、加賀料理をはじめとする伝統的な蓄積と、そこからの発展を基軸に据えた点が、金沢市の創造都市政策をユニークなものにしている。
なかでも力を入れているのが人材育成だ。終戦の翌年1946年に創設された金沢美術工芸大学、市政100周年の89年設立の金沢卯辰山工芸工房、そして96年に開校した金沢職人大学校の3施設がその中核を担う(*6)。設立年からもわかるように、それらは創造都市政策で新たに立ち上げたものではない。従来から地道に取り組んできた人材育成を、「革新あってこその伝統」という考え方に基づいて、90年以降に開館した2つの文化拠点と束ね、先に示した3つの将来像を実現しようというのが、金沢市の創造都市の戦略である。
人材育成事業として、最近では若手の工芸家を海外のユネスコ創造都市に派遣する「クリエイティブ・ワルツ」、子どもたちの創造性を育む「工芸子ども塾」なども実施している。2015年に北陸新幹線が金沢まで開通する際には、駅舎の柱には金箔が、待合室には伝統工芸がしつらえられる計画だという。同年、金沢市はユネスコ創造都市ネットワーク国際会議の開催も目指している。
*4 “Craftism”憲章(金沢創造都市推進プログラム)
1. 文化と産業の連環を生み出す“Craftism”を、さらに磨き、高めていく。
1. 人を育み、生活を豊かにする“Craftism”を、次世代に継承していく。
1. 「手仕事のまち・金沢」の源泉たる“Craftism”を、国内外へ発信していく。
*5 実は、金沢の創造都市への取り組みは民間主導で始まったものである。1997年金沢経済同友会が40周年記念事業として金沢創造都市会議を提唱、2001年以降、隔年で会議を開催しており、現在の創造都市政策は、その延長線上に位置している。
*6 金沢美術工芸大学:これまでも芸術院会員や人間国宝を輩出してきたが、最近では、アニメーション、工芸デザインの分野でも、さまざまな人材を送り出している。
金沢卯辰山工芸工房:陶芸、漆芸、染色、金工、ガラス工房で3年間の研修を行い、後継者を養成。2012年までに県外からの163人、海外からの9人を含む231人が修了している。
金沢職人大学校:大工、石工、左官、瓦、造園、畳、板金、建具、表具の9つの科で基本的な技術を身につけた中堅職人が学んでいる。
●アートNPOが牽引する温泉都市別府の創造的チャレンジ
2006年11月、第5回全国アートNPOフォーラムが別府市で開催された。誘致したのは前年に発足したNPO法人BEPPU PROJECTである。翌年このNPOは、チャールズ・ランドリー、仏ナント市の文化局長ジャン=ルイ・ボナンという創造都市の世界的権威を招聘して国際シンポジウムを開催、浜田現市長もパネルディスカッションに参加した。そして09年に「混浴温泉世界」と題した現代芸術フェスティバルを実現、街中や温泉地などでサイトスペシフィックな作品が展開された。
このアートNPOは他にも多彩なプロジェクトを手がける。08年には中心市街地の空き店舗をリノベーションして8箇所の文化交流スペース「Platform」を開設(*7)。中心市街地活性化協議会に参画し、官民共同で推進した事業だ。中心市街地を小売店の集積地としてではなく、文化を起点にした集客と交流の場、人材育成の場として再生していこうという試みである。
10年にはまち全体を使って地元の市民や団体が文化事業を提案・実施する「ベップ・アート・マンス」を立ち上げた。09年から発行するようになったクーポン型金券“BP”は、加盟店での食事やショッピング、温泉などに使えるというもの。利用可能な店舗数は年々増加し、12年には126軒、使用枚数は2万8,000枚を超えた。こうした取り組みは人々の回遊を促し、中心市街地の集客・交流に大きな成果をもたらしている。同年のフェスティバルでは、大分県も実行委員会に加わり、国東半島でのアートプロジェクトも同時開催されるなど、創造的なチャレンジはさらに広がった。
別府は戦災を免れた街で、日本初の木造アーケードなどレトロな都市空間や建物が多数残されている。それらをリサイクルしながら、アートで都市に新たな価値を与えていく。別府における創造都市もまた、別府ならではの資源を活用した上に成り立っている。
*7 現在はそのうちの4つを運営。ほかにも、戦後すぐに建てられた「清島アパート」を若手アーティストの滞在・制作の場として運営するほか、大分県内で唯一残されていたストリップ劇場「別府A級44劇場」を「別府永久44劇場」と名付けて改修・運営している。
ここに紹介した3つの事例から、日本の創造都市の現状や傾向を語ることは極めて困難だ。同じ創造都市を標榜しながら、全く異なるアプローチで政策、事業を展開しているからである。しかし、それぞれの歴史や文化的な蓄積、行政組織の実績など、過去の積み重ねから創造的な展開を図っている点は共通している。
創造都市はともすると、芸術文化や創造産業によって今までとは異なる新たな政策や事業を立ち上げることのように理解されがちだ。都市に蓄積された独自のリソースから、いかに創造的な取り組みを紡ぎ出していくか─創造都市は過去を把握し未来を展望する作業だとも言える。