大正時代に陶芸家の濱田庄司が移り住み、民藝運動の拠点として発展した栃木県益子町。人口約2万4,000人のこの町で、2009年にアートプロジェクト「土祭(ひじさい)」が立ち上がった。それから3年、東日本大震災を経て、9月16日から30日まで2回目が開催された。
今回の会場となったのは、鎌倉初期に創建された綱神社や陶器の販売店が連なる城内坂、古い民家や商家などが残る旧市街地など、1日歩けば回れるエリア。鎮守の森を包み込む川崎義博のサウンドインスタレーションをはじめ、料理ユニット南風食堂のかまどで調理された地元の有機野菜料理、石蔵にたたずむ益子出身の作家・藤原彩人の陶器人間、高校生がつくったソーラー発電によるイベント広場「土祭広場」など。益子の生活と文化を静かに、しかし雄弁に伝えてくれるプロジェクトだった。
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上:鎮守の森に囲まれた綱神社。川崎義博のサウンドインスタレーションにより、聖なる音が響きわたる
下:地域コミュニティ「ヒジノワ」
始まりは、06年に40歳で町長に就任した大塚朋之氏が策定した「ましこ再生計画」にある。益子町は濱田が育てた益子焼/民藝で世界中から観光客を集めていたが、リーマンショック後は客足が遠のいていた。大塚町長は、「町民満足度を高める」「交流人口を増やす」「自主財源比率を高める」を目標に再生計画を策定し、その起爆剤となるアートプロジェクトを提案。1998年に東京から移住し、オーガニックレストラン+ギャラリーを開いていた馬場浩史さんに相談を持ちかけた。
「当初、大塚町長は直島などのアート事業を視察し、大がかりなプロジェクトを考えていたようですが、益子の町規模や予算では難しい。僕自身、移住してから思い描いていたこともあったので、自由にやらせてほしいと申し出たのです」と馬場さん。大塚町長は承諾し、09年に実行委員会が立ち上がった。
総合プロデューサーとなった馬場さんが提案したのは、民藝の背景となった益子の歴史と暮らしの素晴らしさに焦点を当て、これからの生き方を問いかけることだった。益子の根本は“土”にあると考え、プロジェクト名を「土祭」として、益子駅からわずか1.2km内の旧市街地だけを会場に開催。あえて陶芸はテーマとせず、アーティストの作品展示と並行して、農業やものづくりに携わる益子人の映像の上映や、役場職員と町民の協働で空き家を改修して展示場にするなどの内容で、16日間の会期中約4万人が来場した。
「益子で年2回開催している陶器市には年間80万人もの人出があります。ですが、それは外来者のためのもの。土祭は住民がこの町の良さを発見できた催しになったと思います」と、事務局を担う産業建設部部長の三宅明男さんは言う。移住者をプロデューサーにしたことなどから、一部に否定的な声も上がった。だが、一方で若い客層を開拓し、再生された空き家を「ヒジノワ」と名付けて、町民、役場職員、移住者などの有志がカフェやギャラリーとして自主的に運営を継続する“場”も生まれた。
次の段階を模索していた時、東日本大震災が起こる。町内の登り窯のほとんどが倒壊し、販売店の損害を含めると7億円を超える大きな被害となった。その3日後、大塚町長は馬場さんを訪ねた。
「2回目はできないと言われるのかと思ったら逆だった。これまで益子町で伝えられてきた暮らしが、震災後の生活を見直す助けになると思われたようです」と馬場さん。2回目では、前回より大きくエリアを広げて、作品展示や地元食材の食堂などのほか、非電化をテーマにした試みなど35のプログラム、さらに40もの住民プロジェクトが企画され、全体を役場職員と町民が混在するプロジェクトチームで運営。地元の高校とも連携し、ボランティア登録者数も600人を超えた。
担当の観光課職員の板野修次さんは、「10代から80歳代のご夫婦まで参加いただき、町民ひとり一人の顔が見えてきた。岡山出身の僕から見ると、この町は給食の器も益子焼を使うなど生活そのものが美しい。ずっと住んでいる方には当たり前のことですが、土祭のお客さんから賞賛され、益子ならではの魅力だと再発見する機会になっているようです」と話す。
益子が伝えてきた暮らしを媒介にして、ゆっくりと、だが着実に何かが変わる予感がした。
(アートジャーナリスト・山下里加)
●EARTH ART FESTA 土祭2012
[主催]土祭実行委員会
[共催]益子町
[日程]2012年9月16日~30日
[企画運営]土祭事務局+官民協働土祭企画チーム
[会場]栃木県益子町内各所
http://hijisai.jp/
○馬場浩史
東京時代にTOKIO KUMAGAIをはじめ、ファッションやデザインのプランニングを手がける。移住後は、ギャラリー、ショップ、オーガニックレストランが併設するstarnetを開く。