またひとつ市民参加劇の名舞台が生まれた。その舞台とは、長崎ブリックホール10周年記念の音楽劇『the Passion of Nagasaki』である。
この作品は、31歳のニートのタミオが、病院で死の床についている認知症の祖母の記憶の中に迷い込み、祖母が生きた長崎の歴史と自分の人生を重ねながら妄想の旅をするというもの。オーディションで選ばれた9歳から66歳までの市民65人が出演し、ブリックのロビーコンサートなどで活躍している12名の演奏家が生演奏した。
原爆や大水害などに見舞われながら立ち直った長崎と祖母のパッション(受難と情熱)を描いた一幕、未来のタミオが妄想のパッション(犯罪者として疑われ、リセット爆弾ですべてをリセットする)を経て立ち直る二幕の2部構成。街を彷徨っていた魂がホールに吸い寄せられたかのように、白い衣装を着た市民が客席を通ってステージに上がっていく幕開けから3時間。「人はひとりでもひとりではない」ことが、市民参加劇というとびきり包容力のある演劇表現によって力強く伝わってくる舞台だった。
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1998年10月に市民文化振興の拠点として開館したブリックは、2000席の大ホールしかないものの、当初から市民参加を指向し、約300人が舞台に立ったこけら落とし公演などの事業を行っていた。アマチュア中心だったこの取り組みに専門の演劇人が関わるよう軌道修正されたのが2002年(雑誌「地域創造」23号参照)。今回の『the Passion of Nagasaki』は、それ以来、深く長崎に関わるようになったアーティストとスタッフがタッグを組み、集大成としてつくり上げたものだ。
現地に約2カ月滞在して陣頭指揮をとった原作・総合演出の岩崎正裕は5周年記念公演『星眼鏡ノオト』の作・演出を担当して以来の付き合い。「これだけの市民参加劇はどこでもできるわけではなく、歴史があって人との距離感が近い長崎だからやれた」と言う。
大阪100年史として書かれた原作『JAPANESE IDIOT』を長崎の物語として書き直した脚本の泊篤志も7年前から戯曲ワークショップやリーディング公演などでブリックに関わってきた。「原爆のシーンは悩んだが、資料館にあった投下前・後の写真を比べたとき、本当に何もなくなったんだと衝撃を受け、『すべては消えていた』という詩を書いた。それと『長崎の鐘』を書いた永井隆博士がクリスチャンだったと知り、それを全体の枠組みにして、『the Passion of Nagasaki』(受難と情熱は両方とも英語でパッション)というタイトルにした」(泊)。
『星眼鏡~』の作曲を依頼してから岩崎が絶大な信頼を寄せている橋本剛(長崎出身)は、「劇音楽を作曲するようになり、演劇は教育のひとつだと思うようになった。幅広い人に参加してもらえるし、異なる世代間の交流も学べる。共通目的をもって進んでいくとはこういうことなんだと学んだ」と言う。
こうした外部の専門家に対し、地元の劇団として小道具、衣装、演出部と現場を全面的に支えたのがF’s Companyと主宰の福田修志だ。「僕は10年前からいろいろな形でブリックの演劇事業に関わってきたが、一つ越えるごとに僕も劇団もレベルアップできたからやってこられた。自分たちだけでは出会えなかった演劇人と人脈ができたのは大きい」と振り返る。「市民全員と面接して細かい情報まで上げてくれた。彼らがいなければ今回の公演はできなかった」と岩崎。
ここ数年、市民参加劇に大きな創作的成果が生まれるようになってきたが、それは、こうしたアーティストや地域に目に見えない経験が蓄積されてきた結果だと改めて感じた。
今回の企画をした文化振興課の岩永貴博さんは、感動した田上富久長崎市長からみんなに届いたこんなメールを読み上げた。
「感じたのは『人間はみんなつながってる。みんな一つ』ということ。(略)お互いにお互いを讃え合う…あなたはすごいね!もちろん私もすごい!観客席のあなたもすごいよ!生きてるってすごいね…。そんな気持ちの人がつくるまちがこの世にあったらすごいね。いや、これだけの『受難』を経験してきた長崎がまずなってみるというのはどうですか?人間ができる最も残酷な経験も、最も気高い経験もしてきたまちだから、長崎ならきっとできるよ」
(坪池栄子)
●長崎ブリックホール開館10周年記念
事業 市民参加音楽劇「the Passion of Nagasaki」
[主催]長崎市
[会期]3月14日、15日
[会場]長崎ブリックホール
[原作・総合演出]岩崎正裕(劇団太陽族/大阪)
[脚本]泊篤志(飛ぶ劇場/北九州)
[作曲・指揮]橋本剛
[振付]西由美子(PRIDEROCK)
[演出補佐]福田修志・河内清通(F's Commpany)