横浜能楽堂が2002年に上演した「秀吉が見た『卒都婆小町』」は、今も再演の要望が絶えないと聞く。研究者と能楽師が2年間検討を重ね、再現した能の上演時間は現在の約半分で、躍動感に観客は瞠目した。その記憶が能楽ファンに刻まれているようで、4月1日の企画公演「二つの『道成寺』─梅若六郎演出による─」も、何かを期待したファンで早々にチケットは完売した。
「二つの道成寺」とは、道成寺伝説を素材にした能の大曲『道成寺』と、それを翻案した沖縄の組踊『執心鐘入』のことだ。能も組踊も日本の古典芸能だが、沖縄の島唄を聞けば沖縄が独特の音楽文化をもつことが明らかなように、芸能を育んだ文化の土台が沖縄と大和では異なる。2作品を見比べることで、その文化の違いから生まれる展開の妙を楽しもうという企画である。ただ、そこは横浜能楽堂のこと、単に上演するだけではつまらないと、能楽師の梅若六郎氏を演出に引っ張り出した。
組踊は琉球国王を認証する皇帝の書類を携えて来る中国の使節・冊封使を歓待するために、躍奉行の玉城朝薫がつくり、1719年に首里城で上演したのが始まりとされる。豊穣祈願に演じる沖縄の芸能を土台に、能や歌舞伎の要素を取り入れた音楽劇・組踊は琉球の「国劇」となり、地方にも広められた。しかし、明治の琉球処分(王国の滅亡と日本併合や廃藩置県)により新たな展開を強いられる。
能と違い組踊の担い手は専門職ではなく若い士族であったが、職を失った彼らは町で組踊や古典舞踊を演じて日々の糧を得なければならなくなる。やがて観客を獲得するために民謡や村芝居の要素を取り入れ、「雑踊り」と呼ばれる新たな芸能を生み、その後の沖縄芝居や歌劇に大きな影響を与えていく。
長年、能の公演に携わり、今回の公演を企画した中村雅之・横浜能楽堂副館長は、こうした状況を「舞台芸術としては未完成の段階で、王朝というバックボーンを失ってしまったのではないか」と言う。しかも、「太平洋戦争で道具や資料が焼け、はっきりした伝承の形がわからなくなってしまったようだ」(中村)。
2つの打撃を受ける以前の形はどのようなものだったのか探りたい。さらに、若い俳優に能の演出にふれてもらうことで今後の組踊の発展に刺激を与えたい。こう考えた中村氏は数年前から沖縄の古典芸能界との人脈づくりを進め、昨年、梅若氏に演出を依頼した。
演出に当たった梅若氏も、中村氏も心掛けたのは新しさの追求ではなく、組踊の様式美を生かした原点回帰。組踊は本来、橋懸りをもつ能舞台に近い舞台で演じられていたが、苛烈な沖縄戦で首里城は焼失、町中の演芸場も失い、戦後はプロセニアムアーチのある劇場で演じられることが多くなっていた。「額縁の中の平面的な演出になってしまったものを、能舞台を使うことで立体的なものに戻した。また、鬼女が着ける面も、能の般若の面を土台に、今使っている面を参考に青い彩色をして使った」と中村氏。
その言葉どおり、今回は能舞台の空間を生かした演出がいろいろと試みられた。例えば現行の『執心鐘入』では、主人公の若者・若松は舞台下手から登場、若松に恋心を抱く宿の女も現れるが、今回はいずれも橋懸りから登場する。女が幕内で恋心を吐露する場面も橋懸りでの若松との掛け合いになった。女の鐘入りの場面も、現行は置いたままの鐘に後ろから入ったりするのだが、『道成寺』同様、当初から舞台上に下げられた鐘が女の上に落ちてきた。能舞台上での稽古は上演前夜のみだったため、沖縄の俳優陣にとっては梅若六郎演出が掌中に入っているとは言い難いものだったかもしれないが、その挑戦は梅若晋矢がシテを務めた『道成寺』の緊迫感あふれる舞台とともに、観客に強い印象を残した。鬼女の面を新調する話も進み、組踊に刺激を与えたことも確かなようだ。
「鶴見区を中心に沖縄出身者が多く、(沖縄芸能の)演者もいる横浜では、沖縄の芸能は大切にしていきたい地域文化。横浜にある能楽堂ならではの取り組みだと思っています」という中村氏。横浜能楽堂では今後も、年に1本は沖縄の芸能を企画していく予定だという。
(ジャーナリスト・奈良部和美)
●横浜能楽堂企画公演「二つの『道成寺』─梅若六郎演出による─」
[期日]4月1日
[主催]横浜能楽堂(財団法人横浜市芸術文化振興財団)
[出演]組踊『執心鐘入』:東江裕吉、親泊邦彦、親泊久玄、真境名律弘、具志幸大、大湾三瑠ほか/能『道成寺 赤頭 中之段数拍子 崩之伝』(観世流):梅若晋矢、工藤和哉、坂苗融、大日方寛、山本東次郎、山本泰太郎ほか