「第2回可児歌舞伎祭」の開催を告げるのぼりが2本、雨に打たれていた。2月16日、岐阜県の可児市文化創造センターで、同市が2000年度から3年計画で始めた「可児歌舞伎プログラム」の発表公演が開かれていた。開場1時間前にはセンターの玄関から主劇場入り口まで長い行列ができ、その脇にみたらし団子やほう葉寿司を売るブースが並ぶ。劇場に入ると左右の2階席から赤いぼんぼリが下がり、オーケストラピットは座布団を敷いて桟敷席に変身。黒いはっぴに茶の細帯をきりりと締めた係員が案内を務め、芝居小屋の雰囲気が漂っていた。
岐阜県は地歌舞伎の盛んな地域だ。見るだけでは収まらず、演じて楽しむ気風がある。可児市も同様で、神社には奉納芝居の舞台が残っている。その可児で30年ほど前に絶えた地歌舞伎が息を吹き返すことになったのは、1998年、市内にあった元貸し衣装店が大量の歌舞伎衣装を市に寄贈したのがきっかけだった。芝居専門の貸し衣装店があったほど可児は歌舞伎が盛んだった、と再認識した教育委員会が再生に向けて動き出したのだ。
だが、かつての様子を知る人は少なく、担当になった渡辺日奈子さん(現可児市文化芸術振興財団)の聞き取り調査に返ってくる言葉は「昔のことで忘れた」。必然的に復元ではなく、新たにつくることになった。99年は市民の関心を高めようと「地歌舞伎の魅力再発見」講座を開き、2000年に上演に向けた体験講座を開始。目標に子どもによる『白浪五人男』の上演を掲げたが、子どもは1人も集まらず、大人の役者志願も少ない。渡辺さんは参加者集めに奔走した。結局、子どもは4人しか集まらず舞踊に変更、裏方志願者にも役を割り当てて、2001年1月20日の「可児歌舞伎祭」開催にこぎ着けた。
終わると、状況が一変する。2回目の公演に向けて実行委員会をつくり、地歌舞伎を続けようという人材が受講生の中から生まれたのだ。公演を見て「私もやりたい」という声もあがった。2年目の体験講座は、役を割り振るのに困るほど参加者が集まった。実行委員会は月1回の会合を重ね、裏方や運営の先頭に立った。ぼんぼりも桟敷席も、ホールを下見した時の実行委員の雑談から生まれた。こうした経験から渡辺さんは「市民のみなさんの意欲を無駄にせず、まとめていく技術が必要だ」と気付かされた。
役者たちには現代劇調のせりふ回しの者もいれば、腰が伸び切ったままの者もいるが、楽しく演じる気持ちは伝わってくる。観客席からは「大統領!」と声が掛かり、パラパラとおひねりが飛ぶ。温かな空気が劇場を満たし、演者、裏方勢揃いの一本締めで大円団を迎えた。
「皆さん一生懸命で正直に言う通りやってくださった。教えやすかったですよ」と、指導に当たった松本団升さんは言う。棒読みのせりふを歌舞伎調にするのも大変だったが、日頃、女性はスラックスでパタパタ歩いているから内股で歩けない。男性も重心を下げて足の裏を地に付けて歩いていないから、「間際まで女らしく、男らしく歩くことができなかった。それが、衣装を付け、支度をすると、らしくなる。いい出来でした」。
『寿曽我対面』で五郎時致を演じた大脇裕子さんは新聞を見て小学生の娘と参加した。「普段とは全く違う言葉や動きを身に付けるのは大変でしたけど、楽しかった。これからは客席から見た時に、今までとは全く違う見方ができると思う」。舞台を降りて湧いてきたのは、「もう1回やれたら、もっとうまくできる」という思い。これが、地歌舞伎熱というものなのだろう。
可児歌舞伎プログラムは成功裏に終わったと言えそうだ。新たな課題は行政の手を離れて、市民活動として根付くことができるかだ。岐阜県地歌舞伎振興協議会に入ることも決まり、可児地歌舞伎は第二段階に入る。
(奈良部和美)
●第2回可児歌舞伎祭
[日程]2月16日
[会場]可児市文化創造センター 主劇場(宇宙のホール)
[主催]可児歌舞伎祭実行委員会、可児市文化芸術振興財団
[振付]松本団升、松本松扇
[出演]可児歌舞伎祭講座生
地域創造レター 今月のレポート
2003.3月号--No.95