「もっと大きなホールでやればいいのに」と、地下鉄で乗り合わせた若い女性が言った。行き先は東京・芝公園のabc会館ホール。2月10日、賢順記念全国箏曲祭実行委員会主催の「賢順賞受賞者特別演奏会」は、聴衆が425の座席と補助席を埋め、立ち見客も出る盛況で、7人の若い箏曲家の競演に聞き入った。
福岡県久留米市で「賢順記念全国箏曲祭」が始まったのは1994年だ。毎年12月の第一日曜日に行われる箏曲コンクールは、「流派を超えて競う唯一の全国規模のコンクールとして演奏家の登竜門になりつつある」と、準備段階から知恵袋を務めてきた一人、実行委員会副会長の日本音楽研究家・小島美子さんは言う。若い箏曲家の間では今や、「久留米に行って100万円(副賞)を獲ろう」が合い言葉だとか。
コンクールの発端は市制100周年を迎えた89年、地元の邦楽関係者の提案で開かれた「全国箏曲大会」だ。そもそもなぜ久留米で箏曲なのか。現代の箏曲の源流に当たる「筑紫箏」の生みの親・賢順が室町末期、僧として修行し、寺に伝わる雅楽や歌謡を整理して筑紫箏をつくり出した所が久留米市の善導寺なのだという。「といわれても、賢順って何?というのが、市民の大方の反応でした」と箏曲祭事務局を務める久留米市市民部市民文化振興室の吉丸太主査は振り返る。とりたてて邦楽人口が多いわけではないが、熱心な邦楽関係者の旗振りで100周年の全国規模イベントは成功、全国からの募金で、善導寺に「箏曲発祥の地」の記念碑もできた。その余韻が箏曲祭を生む。
一時のイベントに終わらせたくないと考えた市民の盛り上がりに行政が応える形で、5年後の94年、「賢順記念全国箏曲祭」はスタートする。「運営方法や予算でコンセンサスを取るのに時間をかけたのが良かった」というのは事務局の中垣篤さんだ。文化庁の「文化のまちづくり事業」から5年間、毎年約400万円の助成を受けたが、助成金が切れる6年目に危機に直面した。継続すべきか否か。打開策を練って議論に議論を重ねた。最終会議の席上、地元企業が運営費の40%に当たる大口援助を申し出て継続が決まった。時間をかけて立ち上げたからこそ、継続への強い意志も生まれたのだろう。
昨年、箏曲祭は7回目を迎え、賢順賞受賞者は7人になった。そこで、実行委員会が企画したのが、1回目から温めてきた東京での特別演奏会だ。地方からの文化の発信、コンクールのPRが目的だが、同時に、「演奏家として成長していく受賞者を顕彰する場をつくって、久留米との繋がりを持ち続けてほしい」(吉丸さん)からでもあった。事務局では毎月、邦楽専門誌の公演情報を点検し、受賞者やコンクール出場者の名に印をつける。年々、印は増え、箏曲祭の成果の広がりを実感するという。
「箏のふるさと・久留米」の認識は、市民にも着実に浸透している。「毎年、楽しみ」というファンもでき、昨年は約750人の市民が公開審査と演奏会を聞いた。善導寺門前の菓子店は「筑紫箏」と名付けた菓子を売り出した。何より大きな成果は、第1回コンクール直後、善導寺町に誕生した「善導寺ことクラブ」だろう。市が働きかけたわけではない。地元商工会の呼び掛けで、小中学生を対象に生まれたクラブだ。第3回からはコンクール当日、審査結果発表までのアトラクションとして練習の成果を披露しているが、懸命に弾く子どもたちは人気が高く、地元のさまざまなイベントに顔を出すようになってきたという。
学習指導要領の改訂で、2002年度から小中学校の音楽に和楽器が導入されるが、ここでも箏曲祭で蓄積した邦楽の知識やネットワークが力を発揮しそうだ。事務方を担ってきた市役所が、「学校現場と邦楽界の良きパイプ役になる」と吉丸さんは考える。「久留米の学校が箏を教え、ゆくゆくは久留米から賢順賞を受賞する演奏家を」。それは、実行委員が抱く大きな夢だろう。期待される人材が現れるのは10年後か、20年後か。「その日まで箏曲祭を続けねばなりませんね」と問うと、「もちろんです」というように吉丸さんと中垣さんは微笑んだ。
(ジャーナリスト 奈良部和美)
●賢順記念全国箏曲祭「賢順賞受賞者特別演奏会」
[主催]賢順記念全国箏曲祭実行委員会
[日程]2月10日
[会場]abc会館ホール
[問い合わせ]久留米市市民部市民文化振興室
Tel. 0942-30-9224
地域創造レター 今月のレポート
2001年3月号--No.71