屋久島で開催されたアジア太平洋地域14カ国の参加による世界自然遺産会議を記念して、「第2回屋久島薪能」が催された。公演当日、日本有数の年間降水量で知られる屋久島は、案の定、小雨模様。雨天に備えて町の地域総合センターでも、急ピッチで仮設舞台つくりの作業が進められていた。屋久島で薪能が奉納されるのは、一昨年の98年10月に続いて今年で2回目である。第1回は、文久2年(1862)以来百数十年ぶりの能の復活であった。この快挙に町は大いに沸いた。人口僅か1万4000人の島で、2500人を超える観客が詰めかけたという。
事の起こりは、屋久島を訪れた京都在住の金剛流能楽師豊嶋三千春さんの、「こんな所で能がやりたいなあ」とつぶやいた一言だった。一緒にいた上屋久町の荒田和之さんと柴鉄生さんの3人で「やろうか」「やろうよ」ということになり、早速2人は実行委員会を結成すべく町民に呼びかけた。離島という地理的ハンディから、子どもたちが舞台芸術に触れる機会はほとんどない。そんな島の子どもたちに優れた日本の伝統芸能を見せたい。そういう思いに多くの人々が賛同し協力した。
島には百余りも民話が伝承されている。それを元に新作能をつくろうということになり、島在住の作家、家坂洋子さんが原作を書いた。家坂さんは終の棲家に屋久島を選び執筆活動を続けている高齢の作家である。島の「ヤマヒメ伝説」をモチーフに、心優しい息子が母の命乞いに山に入り、大天狗に殺されそうになるところを山姫に助けられるという「山姫」の物語ができた。豊嶋さんがそれを能台本として脚色構成。豊嶋さんにとっても初めて挑む新作能、「ぜひともいいものを」と心血を注いだ。地謡の節が作曲され、鼓や太鼓など囃子方の手附(てつけ)も施された。衣裳に使われる生地は、京都の染織家中川善子さんが屋久島の草木で染めた。女神の能面は、島在住の寿哲男さんが彫り上げた。寿さんは硯も作れば山仕事もする多芸多才の人物で、種子島の出だ。こうして2年の準備を経て、屋久島のオリジナル能「山姫」が誕生した。
その間、他の実行委員会のメンバーは資金集めに奔走した。地元や県の企業を廻り、この不況時に52企業から協賛を取り付け、町民からの寄付金も合わせて300万円弱を集めた。町は350万円を負担。舞台設営には、島の建設業者4社が大工さんや資材を提供した。テント張りや竹切り、警備に駐車場誘導などの労務は、役場の社会教育課から税務課まで職員が一丸となって取り組んだ。「自治体のテント張り全国大会があったら、うちは上位入賞間違いなし」とは薪能の担当、社会教育課の計屋正人さん。島では薪能のほかにも、夏の「御神山祭」や伊能忠敬の足跡を歩く「伊能ウォーク」など、官民協力のイベントが目白押しなのだ。その度に、職員一同縁の下の力持ちとなる。どうやらこうした協働体制は、屋久島の日常の生活の中で自然に育まれているもののようだ。島にはいまだに共同体の地盤、例えば「奉仕作業」と呼ばれる当番制の朝の農道清掃が残っている。今風に言うなら住民ボランティア活動である。
60年代の高度成長期には、働き手が集団就職で流出し、集落ごとに行われていた浄瑠璃芝居や村芝居の伝統も途絶えてしまったという。しかし近年になってUターンする若者が増え、外からの新住民と共に新たな活力を町に与えている。役場の計屋さんもJターン組。新住民では薪能の実行委員の一人、現場監督としても大活躍の寿さんが良い例だ。やはり世界遺産としてクローズアップされたことが大きな要因になったのではないだろうか。目には見えないけれども、今の島の人々には、自然環境を守り自然と共生してきたことに対する自信と自負が窺える。
さて、時刻は午後5時を回った。皆の祈りが天に通じたのか、奇跡のように雨は上がった。千人を超す観客が、芝生の上に腰を下ろし舞台を見守る。昨年から能のワークショップも始められた。豊嶋さんは「将来的には島の人たちが地謡などの一端を担えれば」と抱負を語る。能が本当にこの島に新しい文化の伝統として根を下ろしていけるのか、その階(きざはし)の第一段だ。夕闇にポッとかがり火が灯った。
(パフォーミングアーツ・プロデューサー 花光潤子)