12年に1回の「熊野神社式年神幸祭」を映像記録
地域創造では今年度から「地域伝統芸術等保存事業」を新規事業としてスタートしました。この事業は、失われつつある地域の伝統芸術の映像記録作成と、関連イベントの開催に対し助成を行うというものです。平成11年度は、映像記録保存事業について17府県28町村、イベントについては4県に助成を行っています。
その一つ、千葉県干潟町では、12年に1度卯年に行われる「熊野神社式年神幸祭」の記録に取り組みました。このお祭りは、総勢千人に及ぶ行列を従え、3日間にわたり神輿が地域を巡る大祭です。今号では、ジャーナリストの奈良部和美さんに干潟町の事業について、祭りを記録するに至った経緯や苦労談を取材していただきました。
祭りは地域のエネルギーの象徴だと思う。人が動き、カネが動く。12年に1度の祭りの度に、千葉県干潟町にある熊野神社の氏子たちは巨大なエネルギーを発揮してきた。
卯年10月、神輿は各地域に設けられた関所やお旅所を巡り、3昼夜をかけて1市5町を練り歩く。総勢千人に及ぶ行列を従え、熊野神社のある干潟町から山田、東庄、海上町と巡り、飯岡町の三川浦で太平洋の荒波に揉まれた神輿は、旭市を回り戻って来る。11の関所では、時代劇さながらに大木戸で番人と先触れが問答、使者が口上を述べて行列の通過を願い出る。関所内には桟敷が設けられ、人々は供奉する行列が披露するさまざまな芸能、手踊りや大名行列に興じる。式次第、祭りを彩る芸能、神輿を補修する技術…伝統を守り、継承するために蓄えられた知恵が祭りのたびに伝えられ、人の絆は強められてきた。
1999年卯年10月、熊野神社は88回目の式年神幸祭を迎えた。祭りを前に申し合わせたように3人の頭に「記録」の文字が浮かんだ。
町の資料館、大原幽学記念館学芸員の鈴木映里子さんは神幸祭に合わせて企画展を開こうとして、記録の乏しさを知る。同じように町でも、少ない記録ゆえに12年後に祭りがどうなるか気にかかっていた。人口8800人、小学生は3校合わせて1学年約80人。農業中心の町といっても新規就農者は年に2、3人だ。人口が増える要素のない現状を考えると、やがて祭りは変容せざるを得ない。今、記録を残さねばとの思いが強まっていた。何とか映像記録を残そうと、教育委員会社会教育係の辻内通弘さんたちが予算繰りを考えていた最中、地域創造の「地域伝統芸術等保存事業」の話が舞い込む。助成金が下りれば、予算の目途も立つ。申請の諾否も決まらぬまま、町は走り出していた。
相談を受けた熊野神社権祢宜(※1)の塚本隆さんにとっても、願ってもない話だった。祭りを取り仕切る役職である典儀(※2)になったが、段取りや予算の記録が大雑把で頭を悩ませていたからだ。そのうえ、祭りそのものが行えるか否か、難題が降りかかっていた。経済的負担の大きさ、神輿に供奉する人員が確保できるのか。4月4日に始まった神社と氏子の話し合いは、平行線のまま時間ばかりが過ぎた。裏方も合わせて1地域100人から200人が支えねば祭りは動かない。他地域からも参加者を募ってはどうか、祭りを日曜日にずらせないか、3日といわず1日で巡行できないか。
大手広告代理店と組んでイベント化しようという提案もあった。東京・八重洲から高速バスで1時間半。観光業者の手垢のつかぬ“知られざる祭り”だ。町がPRし、多くの観客が集まれば張り合いも出る。衣装代も含め10万円、100万円単位の個々人の経済的負担が軽くなるかもしれない。だが、観光客が押し寄せた時、祭りはイベント化し、地元の祭りではなくなる。その認識が大々的なPRを思い止まらせた。
ようやく挙行が決まったのは8月。決断させたのは米込地区の芸能の“師匠”たちだ。12年前に大名行列を勤め、今回は指導役に回った彼らが、若者が動かぬなら再び行列を勤めようと言い出した。その言葉に10代、20代が発奮した。自分たちの代で絶やすわけにはいかない。学校や仕事の合間に、歩き方、2人1組で毛槍や台傘を空高く投げ上げて受け渡す芸など、田んぼ道や神社の境内で猛特訓を行った。
8月末、地域創造の助成が決定、9月に補正予算を取り、記録作業はスタートした。地元意識もあって撮影を委託した千葉テレビは、祭りの準備から何度も足を運び、地元とのコミュニケーションを作り上げた。こんなすごい祭りが千葉にあったなんて、テレビマンの驚きと感動が、撮影にのめり込ませた。
大規模な祭りにもかかわらず、全体像を知る町民は少ない。記録するからには、神事も含めて映像を撮り、多くの町民に知らせたい。だが、宗教分離が建前の行政である。地域の行事の記録としてのスタンスを貫いた。塚本さんは神事の映像化に一定の規制をはめた。拝殿の開扉の瞬間や御神体は撮らない等々、枠をはめてもなお、神事の最中、頭を下げている参集者の見られぬ光景、「おお」という警蹕(けいひつ)をどこで発しているか、神主が拝殿の階段をどう上り下りするかなどが記録された。
撮影に関して、辻内さんは祭りには参加しないという制約を自らに課した。現場にいると、どうしても自分の考えが頭をもたげる。ディレクターの見方と異なることもあるだろう。思い入れも生まれ、編集時に映像を客観的に見られそうもない。「祭りがどう行われているか知らない人に知らせるのは、まっさらな目で見る必要がある」と考えたからだ。
約30時間を30分に凝縮する編集は2日を要した。どの映像を残すか。立場が違えば考えも異なる。権祢宜の塚本さんは神事色を濃くすべきではないかと考え、ディレクターや鈴木さんは祭りの面白さ、人間模様にもスポットを当てたいと思う。30分の枠に歯がみした。
ナレーションにも気を配った。宗教を肯定も否定もしない。中立的立場を貫くために、「といわれている」といった具合に断定的表現を避けた。芸能としては面白いが、猥雑な言葉の飛び交う部分もカットした。が、様々な制約が作品としての完成度を高めたともいえる。余分なナレーションは入れず、極力映像で語らせた「熊野神社式年神幸祭」は、祭りへの関心を引き出す作品になったようだ。
財産が干潟町に残った。「男くらべ」といわれる祭りの一場面に今回、少女が参加した。米込地区の鉄砲組が少年だけでは足りなかったからだ。昔ながらの祭りを記録するには、塚本さんや鈴木さんの危惧通りラストチャンスだったろう。この財産をより多くの人に利用してもらおうと、町はビデオテープの貸し出しを始めた。さらに、作品に使わなかった膨大な映像記録の活用を模索している。
※1 権祢宜
神社に奉する神職の役職名。宮司、権宮司の下に祢宜、権祢宜がおかれている。
※2 典儀
臨時に命じられ、儀式をつかさどる役職。
●地域伝統芸術等保存事業に関する問い合わせ
地域創造総務部 長内・平 Tel. 03-5573-4055