一般社団法人 地域創造

理事長 新年あいさつ

新年あけましておめでとうございます。

2000年1月1日 財団法人地域創造

 

理事長あいさつ

 

◆財団法人地域創造は昨年9月に5周年を迎えました。私が自治省官房長時代に発想をした財団だけに、その理事長として皆さまと一緒に5周年のお祝いをさせていただけたことは誠に感慨深いものがございます。また、5周年記念パーティの折にはたくさんの方々にご出席いただき、この場を借りてお礼申し上げます。私どもの財団は、文化活動を通じた感動をプロデュースする仕事をしておりますので、記念パーティもそれにふさわしい企画でと考え、「公共ホール音楽活性化事業」に登録されている演奏家の方々にご協力いただき、ミニコンサートを行いました。乾杯の音頭も声楽家によるオペラ『椿姫』の乾杯の歌でさせていただきました。お陰様で、大変ご好評をいただき、パーティの席とはいえ、本物の音楽のもつ力=心を開く効用というのを改めて痛感した次第です。
 

◆1998年2月に理事長に就任してから約1年間、私なりの財団事業を構想してまいりました。その実現に向けて第一歩を踏み出したのが本年度であり、たくさんの新規事業をスタートさせました。財政的に支援していただいた各方面の方々にお礼を申し上げるとともに、急増した業務を成し遂げてくれた職員にも感謝したいと思います。

 

◆財団の自主事業として初めて美術ジャンルに取り組みましたのが「市町村立美術館等活性化事業」です。市町村には小規模な博物館や美術館がたくさんありますが、これらの施設をいかに活用するかが地域づくりにとって大きな課題になっていました。そこで実績のある兵庫県立近代美術館と静岡県立美術館の協力を得て、県立美術館のコレクションを県内の市町村立美術館に提供する巡回展を企画していただきました。私も西淡町立滝川記念美術館に出かけましたが、農繁期にもかかわらず町民の1割が美術館に訪れてくださり、美術との出合いを楽しまれていました。県立美術館はとかく遠方から集客することに目が向きがちですが、地元の市町村のことを考えた活動の仕方もあるように感じました。県と市町村という異なる行政単位がネットワークをするにはいろいろと課題もありますが、こういう努力をもっと全国的に広げていければと考えています。2月に高知県立美術館で行うステージラボでは、初めて美術コースを設けました。こうした場を通じて学芸員の方々と一緒に地域づくりに役立つ美術館運営について考えていきたいと思っております。

 

◆地域劇団の東京公演をサポートした「リージョナルシアター・シリーズ」は、東京の新聞だけでなく地方新聞にもたくさん取り上げられるなど大変な反響でした。若い観客の方が非常にたくさん観に来られていて、地域劇団に対してこれほど関心が高まっていたのかと驚かされました。情報提供だけでなく、こうした出合いの場の必要性を痛感しました。舞台成果も素晴らしく、地域の潜在力を見せつけられた思いがしました。こうした劇団を育ててこられた地域の方々には心から敬意を表したいと思います。

 

◆また、「公共ホール演劇製作ネットワークモデル事業」ではびわ湖ホール、世田谷パブリックシアター、盛岡劇場の3館にご参加いただき、演劇の共同製作の試みを行いました。出来上がりました『ネネム』は関係者のご努力で大変素晴らしい作品に仕上がり、私も客席で堪能させていただきました。この事業では作品づくりの試みとともに、「市町村立美術館等活性化事業」と同様に、県、区、市という全く性格の異なる自治体の連携の仕組みを模索することが大きな課題になっています。これからの地域づくりを考える場合、こうした連携が大変重要な手段になってくると考えられるからです。連携事業では、どこかの自治体がイニシアティブをとることが現状ではなかなか難しく、当面、私ども財団が接着剤となって自治体の組織的なネットワークづくりのあり方を模索していければと考えております。

 

◆公共ホールが自主性をもちながら住民のための企画を立案することと、クラシック音楽の聴衆育成を目的にスタートした「公共ホール音楽活性化事業」も本年度で2年目を迎えました。この目的を達成するには現在の事業規模はあまりに小さく、全国のホールに事業を提供しようとすると100年はかかります。財源に限りがあるため急速に広げられない悔しさがありますが、派遣先の地域の方々と一緒に苦労しながら取り組んでくださっている演奏家やホール職員の体験や努力は必ずや次につながるものと確信しております。こうした普及事業への取り組みを見ていますと、演奏家もホール職員も人格的に成長していくといいますか、人間の幅が広くなっていくように思います。それがひいてはいい演奏やいい地域づくりにつながっていくのではないでしょうか。今後ともぜひ拡大してまいりたい事業のひとつです。

 

◆ワールドカップ日本組織委員会事務総長との兼任を仰せつかり、今年1年でスイス、韓国をはじめ延べ20回近く海外に出かけました。諸外国に行って改めて感じたのが、日本の住環境の貧しさです。狭い家に通勤ラッシュ、土日は疲れて寝ている・・・。これで豊かと言えるでしょうか。諸外国並みのゆとりある生活環境を実現できる場所は、日本では地域しかありません。仕事をしながら文化もスポーツも楽しめ、豊かな住環境が整備された新しい地域をつくらなければと夢を膨らませた次第です。

(聞き手:坪池栄子)

 

●遠藤安彦(えんどう・やすひこ)
2000年1月1日はどこで迎えられますかとの質問に「1999年も2000年も2001年もサッカーの天皇杯決勝だから、サッカーとともに世紀越えです」とのことでした。

 

◎1998年1月に自治省事務次官を退官、2月1日に財団法人地域創造理事長就任。1999年1月より財団法人2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会副会長兼事務総長。

 

クローズアップ

映画館のない町、宝塚市にオープンした公設民営映画館「シネ・ピピア」

 

●建設の経緯

 

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 1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた兵庫県宝塚市。中でも、阪急宝塚線売布(めふ)神社駅前では商店、住宅など建物の多くが倒壊した。1994年2月に「売布神社駅前地区街づくり研究会」が発足し、駅前整備計画が動き始めた矢先の出来事だった。市では地震から1カ月後の2月16日に、駅前の国道176号線をはさむ約1.6haを計画予定区域として震災復興再開発事業の地元説明会を開く。商業施設、公益施設と高層住宅からなる2棟の再開発ビル建設と街路、駅前広場の整備を行う計画で、住宅・都市整備公団(現、都市基盤整備公団)が施行を担当することになり、すでに発足していた「研究会」はただちに「売布神社駅前地区街づくり協議会」と改称、計画内容の検討に入った。この過程で、再開発ビル「ピピアめふ」の顔として日本で始めての公設民営映画館「シネ・ピピア」が生まれることになる。再開発ビルは震災から4年9カ月を経て今年10月に竣工、シネ・ピピアも他の商業・公益施設と同じく10月29日にオープンした。

 

●映画の街から映画館のない街へ

 

 宝塚にはかつて東宝系の映画スタジオ、宝塚映画撮影所があり、宝塚歌劇のスターを起用して、60年代中頃まで多くの映画が作られていた。しかしながら映画産業の斜陽化に伴い、70年代に入ると映画製作はストップされ、映画館も市内から姿を消してしまう。市民が映画を見るためには大阪や神戸に出かけなければならないという状態が30年間続いていたのである。再開発ビルの公益施設に映画館を、という市民の声は地元で自主上映活動を続けてきたシネクラブを中心に多く寄せられた。それを受けて「市民参加型の文化施設」「宝塚文化の再発見」「新しい文化発信拠点」――こうしたコンセプトを実現できる施設として映画館の設置が決定した。

 

 シネ・ピピアには50席の映画館が2館ある。1館は宝塚と関係の深い東宝系ロードショー館、もう1館が独立系の映画を公開する「名画座」。後者のプログラムが民営の腕の見せ所になる。

 

●ミニシアター精神が支える公設民営

 

 公設民営の「公」の主体は宝塚市、「民」の主体が大阪でミニシアターを運営しているシネ・ヌーヴォである。全国の映画館が大手映画会社の系列に組み込まれて映画興行の硬直化を招いていた状況に一石を投じたのが、大都市に現れたミニシアターの自由で多様なプログラミングだった。ミニシアターはインディペンデント映画という新しい中味を持って新しいマーケットを開拓していった。その動きは今、全国に広がりつつあり、東京に一極集中していた映画製作、上映の現場が各地に分散しはじめている。とはいうもののマーケットは発展途上で、映画館の採算性はまだまだ低い。映画館建設の設備投資のリスクの大きさを市民株主方式で解決しようとしている例もある中、今回、新たに提案されたのが公設民営による映画館運営である。

 

 基本的なスタンスは、映画館建設は設備を含めて行政が負担する。映画館の運営、番組制作、宣伝は入場料でまかなうというものだ。地域への映画館展開の動きとしては、商業的可能性に着目する側から大規模ショッピングセンターと一体となったシネマ・コンプレックスの建設が盛んに行われるようになってきた。しかし、一方的に送られてくる映画を消費するだけでは映画文化は育たない。そのためには映画の文化的可能性に着目する側からのムーブメントも必要であり、単に映画も上映できるというだけの公共ホールにとどまらず、運営を専門家に任せるシネ・ピピアの試みは貴重である。

 

●シネ・ピピア支配人、景山理氏に聞く

 

 景山氏が関西を拠点に映画の上映活動を始めたのは30年前、その後も自主上映や映画評論紙の発行を続けてきた。97年1月に大阪九条に「シネ・ヌーヴォ」をオープン、定期的な自主上映活動から常設の映画興行に踏み出す。しかし「シネ・ピピア」の企画との関わりはさらに遡る。そんな中で起こった95年1月の阪神大震災は、景山氏にとって映画との関わりへの根本的な問いかけとなった。「ああいう極限状況の中で、映画館ていうのは必要なのか、映画っていうのは必要なのか、それが試された」。氏の結論は「他者を思う想像力」を養う映画の力に賭けるということだった。

 

 「当事者のことは分からないというのは仕方のないことかもしれない。でも僕としてはそういうことを知った以上、人間は変わってほしいと思うんだね。そのことを自分たちはどう考え、どう次の世代に伝えるのかという責任があると思う。そそれが文化じゃないかと。そんな(未曾有の)体験の中で、人々を支えるものとして映画がちゃんとあってほしいと…」

 

 氏にとってシネ・ピピアは映画を上映する場だけにとどまらない。オープニング作品として、やはり震災を体験した芦屋在住の大森一樹監督の最新短編映画を製作した。映画館のラストショーに集まった人たちの出会いと別れを描く、映画また映画館、そしてそんな世界に関わった人々への思いに満ちた作品だ。

 

●シネ・ピピア
[所有者]宝塚市
[運営主体]関西都市再開発株式会社 
[運営協力]シネ・ヌーヴォ
[所在]兵庫県宝塚市売布2-11-1 Tel. 0797-87-3565

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