神奈川県藤野町は東京・新宿から中央線でおよそ1時間。山梨との県境にある緑濃い町だ。夏の終わりの一夜、篠原地区の大石神社は賑わう。北相模大石神社奉納人形浄瑠璃は8月28日、6回目を迎えた。数日前に大阪から乗り込んだ国立文楽劇場の裏方と地元の二人三脚で、拝殿の左右に花道と床(大夫と三味線方の席)がつくられ、桟敷も出来た。神社の入り口横では消防団や“若妻会”の面々が模擬店を準備。午後6時半の開演時には、東京や大阪からもやって来た1000人近い観客で境内が埋まった。
演題は「伊賀越道中双六・沼津の段」。街道を行く旅人は地元の有志。巨大な扇風機が回り桟敷を旋風が襲う。浄瑠璃と南米の太鼓を伴奏に踊る「奉納 神社まるごと三番叟」では、クライマックスに打ち上げ花火が開いた。人形遣いも浄瑠璃方も裏方も、劇場ではできない大胆な演出に知恵を絞り、観客を興奮させた。
人口1万1000の町が“芸術家村”を掲げて10年が過ぎ、さまざまな人が移り住んだ。舞踏家、陶芸家、造形作家・・・。奉納人形浄瑠璃の仕掛け人、文楽の人形遣い吉田勘緑さんもそうした移住者の1人。7年前、友人を介してこの町を知り、一家をあげて越して来た。間もなく、大石神社を発見する。明治に建てられた拝殿は人形浄瑠璃にはちょうどいい間口。何よりも回り舞台に魅せられた。ここで、ワクワクドキドキする芝居をやってみたい。神社はかつて、集落の文化サロンだったはずだ。人が集い、芝居に興じ、恋を語り合った。その賑わいが取り戻せれば、新しい文化交流が生まれるに違いない。人形浄瑠璃を奉納したい、観客は無料で楽しんでほしい・・・。勘緑さんは抵抗覚悟で切り出した。
“よそ者”が大事な鎮守様を使いたいと言い出したのだから、当然のごとく反発はあった。仲介役を果たしたのが篠原地区に住み、当時、町の芸術祭担当だった河内正道さんだ。地区の小学生は減少の一途、地域に活力を起こすにはどうしたらいいか考えていた折でもあった。もともと大石神社は地歌舞伎の舞台。周辺の祭りに興行に出るほど、人々が歌舞伎に入れ込んだ時代もあった。その「元来、芸事好きの気風」をよりどころに、河内さんは地元を口説いた。四十数年ぶりに回った舞台はマスコミに取り上げられ、多くの観客を集めたが、1、2年目は地元の厳しいチェックの目が光った。
“勘緑流転入者心得”がある。誘われたら断らない、約束は絶対守る、冠婚葬祭は出席する、神社の掃除など奉仕活動に参加する、挨拶をする等々。「人寄せ」と称してホームパーティーをしばしば開き、年に数回「狸山通信」なる新聞を発行しては篠原地区の全84戸に手配りする。人形浄瑠璃が近づくと、軽トラックに幟を立て町を走る。声を掛け合い、酒を酌み交わし、共に汗を流して、考え方をぶつけ合い、人の輪は築かれていった。
3年目、変化が訪れる。「最初は売店でも出して活動資金を作ろうといった程度の関わり方」(河内さん)が、子どもの育成会、PTA、消防団の全面的支援になった。準備に加わり、子どもたちが人形と共演した。昨年は地元の神輿が地元の人々に担がれ舞台を練った。今年の春には、文楽の面々と一杯やろうと、消防団の慰安旅行先に大阪を選んだ。「藤野アートスフィア」の一環でもある人形浄瑠璃は1回目から町の助成を受けているが、地元や観客からの花を加えても、見応えある舞台をつくるには赤字。出演者、裏方の区別なく、金づちや雑巾を手に動かなければ幕は開かない。ボランティアが支える公演に、文楽の中堅・若手16人、地元を加えた総勢60人が奮闘するのは、「ここで遊ぶ楽しさ」(同)がこたえられないからだろう。
「ほんとうの町おこしは」と勘緑さんは言う。「そこに何かが根づかなければ」と。イベントを仕組み観光客で一時賑わったとて、地域にどれほどのものを残すだろうか。小学校の学芸会や消防団の宴会に使われ、大石神社は“文化サロン”の賑わいを取り戻し始めた。そして今年の祭り、勘緑さんは神輿の担ぎ手に初めて誘われた。神輿を担ぎ、「子どもたちとも道で会ったらオウと言える仲間意識が生まれた」と言う。共に汗を流して生まれる連帯感と充実感が、町おこしのエネルギーになる。勘緑さんは今、その確信を強めている。
(奈良部和美ジャーナリスト)
●北相模大石神社奉納第6回公演
『人形浄瑠璃」
[主催]藤野舞台を創る会
[日程]8月28日
[会場]藤野町篠原地区大石神社
[問い合わせ]藤野町役場企画課 Tel. 0426-87-2111
地域創造レター 今月のレポート
1999年10月号--No.54