一般社団法人 地域創造

制作基礎知識シリーズVol.4 美術編④ 美術館を飛び出したアート

講師 村田真(美術ジャーナリスト)

 

 90年代に入ってから、表現主義とかポップアートといったような新しい美術運動は影をひそめてしまった。そんな美術界内部の動向より、むしろ社会への接近を図る動きが目立つ。それは、社会的メッセージをもった作品の急増というだけでなく、美術自体を社会に投げ返すという動きに表れている。そうした傾向の一つが、作品を美術館や画廊ではなく日常空間で見せるパブリックアートや屋外展の隆盛であり、もう一つが、アーティストに滞在と制作の場を与えるアーティスト・イン・レジデンスの試みである。

 

 

●美術館から出たパブリックアート

 

  もともとアートはパブリックな存在であるが、ここでいうパブリックアートとは、美術館外の都市空間に出たアートを指す。それは、美術館という公共的ではあるが特殊な空間に囲い込まれたアートを、もう一度日常の場に取り戻そうとする動きだと言っていい。それによって、四角いハコの建ち並ぶ殺風景な都市空間に美的景観を与えるだけでなく、地域コミュニティを結束させるシンボルとしての役割も果たそうというのだ。

 

 欧米では60年代から盛んになり、公共的な建築を建てる時、工費の1パーセント前後をアートのために使うべしとの条例を設けている都市も少なくない。日本でも60年代から山口県宇部市や神戸市須磨で彫刻コンクールが開かれ、入賞作品が町中に設置されてきた。しかし、当時「野外彫刻」「環境造形」などと呼ばれた作品は、今見れば素材も形態もパターン化したものが多く、刺激や感動に乏しかったのも事実。近年“彫刻公害”と揶揄されるほど、地域に馴染めなかった作品が多いのだ。

 

 日本で「パブリックアート」という言葉が根づき始めたのは、ようやく90年代に入ってから。大規模なものでは、91年に新宿に完成した都庁舎のアートワークがある。38点の作品のほとんどは彫刻界の重鎮による旧態依然としたものだったが、1569億円の総工費のうち1パーセント強の約16億円をアートに費やしたことは(使い道には議論の余地があるとはいえ)、評価されていい。これによって以後、大規模な公共建築ではパブリックアートに予算の一部を割くという前例をつくったからだ。

 

 また、94~95年に相次いで完成したファーレ立川と新宿アイランドは、日本のパブリックアートに新風を吹き込んだ好例といえる。このふたつのプロジェクトでは、それぞれひとりのアートプロデューサーがプランを決め、国際的なアーティストに制作を依頼。それまでの選定委員会方式による最大公約数的な作品ではなく、明確な方向性を備えた個性的なパブリックアートが生まれた。それらは、単に美術館から持ち出したような作品でもなければ、ほかの場所と交換可能な作品でもない、その場に根づいたサイトスペシフィックな作品なのだ。以降、こうしたプロデューサー方式を導入するところが増えている。

 

 

●日常空間でのアートの冒険

 

 パブリックアートに並行して、屋外美術展も90年代から全国各地で行われるようになってきた。その背景には、「地方の時代」の掛け声とともに始まる80年代後半の町おこし村おこし運動があり、バブル経済の追い風もあった。早い時期から定期的に開かれてきたものでは、岡山県牛窓町の丘の上や公園で行われていた「牛窓国際芸術祭」、山梨県白州町の森や田園を舞台にした「白州アートキャンプ」、福岡市の繁華街で繰り広げられてきた「ミュージアム・シティ・天神」(今年「天神」から「福岡」に改称)などがある。自然空間、都市空間の違いはあっても、その場所のもつ固有性や、その地域に住む人たちとの交歓を重視する点では共通している。

 

 例えば「ミュージアム・シティ・天神」の場合、地元の美術家、企業、行政の有志が寄り集まって90年に発足。以後2年に1度開催してきた。出品作家は毎回10人前後で、アジアと欧米の海外勢が半分、地元を含めた国内勢が半分というバランスの取れた配分だ。地域に根ざした展覧会を目指しているので、ただ作品をもってきて展示するだけでなく、作家に町を見せてその場で制作してもらおうと、今年度はアーティスト・イン・レジデンスを導入。これによって作家同士、あるいは作家と地域住民との交流も可能になった。予算は毎回3000万~4000万円で、その8割が企業からの協賛、残りは行政や基金からの助成だという。近年は不況のため資金繰りが苦しいようだが、同展はこの種の展覧会としては成功しているほうである。

 

 さて、こうした屋外展に出品された作品は、パブリックアートと違って会期が終われば撤去されるが、見方を変えればテンポラリー(一時的、仮設的)なパブリックアートと考えてもいい。むしろ、公共空間に恒久設置するパブリックアートが、安全性や耐久性を第一に考えなければならないのに比べれば、屋外展のほうがより自由な表現が可能だという強みがある。パブリックアートが美術館のコレクションの常設展示だとすれば、屋外展はある程度の冒険ができる企画展示に例えられるかもしれない。いずれにせよ両者は、美術館に閉じこめられてきたアートを再び日常空間に出すことで、アートに社会性を取り戻そうとする試みだと言える。

 

 

●芸術家支援としてのレジデンス

 

 アーティスト・イン・レジデンス(以下AIR)は、芸術家がある期間滞在して自由に創作できるスタジオを備えた施設、およびそのシステムを指す。昔から芸術家は、パトロンに呼ばれたり国から派遣されて異郷の地で制作するのは珍しいことではなかったが、そのシステムを整備したものだと思えばいい。

 

 欧米ではすでに20~30年前から行われているが、日本では、やはりこれも90年代からの動きである。代表的なものに、95年にスタートした茨城県守谷町の「アーカス」、埼玉県で毎年開催地が変わる「彩の国さいたまアーティスト・イン・レジデンス」、今年から始まった山口県秋芳町の「秋吉台国際芸術村」などがある。これらはすべて自治体の主催だが、中には埼玉県朝霞市の「丸沼芸術の森」のように、民間が運営する例外的なAIRもある。

 

  「アーカス」を例に取ると、ここはアジアと欧米から5人、日本から1人の若手作家を招き、約3カ月間の滞在中に自由に制作してもらうというシステム。レクチャーやワークショップなどを通して、地元住民とのコミュニケーションを深めるのも目的のひとつだ。システムとしてはうまく機能していると思うが、その成否を問うのはまだ早い。AIRの成否はひとえに作家が滞在期間中に何を得て、その後どれだけステップアップしていくかにかかっているからである。

 

 ところで、なぜ欧米でAIRが整備されてきたかというと、ひとつには、美術作品が従来の絵や彫刻のように持ち運び可能なものから、その場で制作するインスタレーションや、その場でしか成立しないサイトスペシフィックな作品に変わってきたということがある。そうなると、作家は出品依頼があるごとにその場へ赴かなければならなくなり、そのための制作場所としてAIRが必要とされるわけだ。付け加えれば、このような作品に対応するのが「第3世代」の美術館(本紙9月号参照)であり、AIRは「第3世代」の美術館とカップル、もしくはその延長上に位置づけることもできるだろう。いずれにせよAIRの基本的な考え方は、作品という「もの」より、それをつくる「ひと」を重視するということであり、一言で言えば「芸術家支援」にほかならない。

 

 一方、AIRには前述の「ミュージアム・シティ」や「アーカス」のように、作家同士や市民との交流を深め、相互に刺激し合うことで地域文化の活性化を促すという副作用もある。日本のAIRの大半が地方自治体主催である理由もここにある。しかし、AIRの主眼はあくまで「芸術家支援」であって、地域文化の振興という“副作用”を目的にすると本末転倒になりかねない。日本のAIRで起こるトラブルの大半は、こうした認識のズレに起因するものだと言っていい。ちなみに、欧米にはなにも制作しなくてもいい、自由研究もしくは気晴らしのためのAIRもあるという。そのために図書館や情報センターなどの設備を備えるほど、芸術家に敬意を払っているのである。

 

 美術館の起源を遡れば、紀元前3世紀に建てられたムーセイオンに行き着くが、それは「現在の美術館や博物館とは趣を異にしており、巨大な図書館を備えた、今でいう国際的な学術研究センターのようなものだった」と本紙9月号に書いた。このムーセイオンは、学者と芸術家の違いがあるとはいえ、才能のある「ひと」を支援するという点では現在のAIRと似ていないだろうか。美術館の歴史は巡り巡ってどうやら出発点に戻ってきたように思う。

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