講師 村田真(美術ジャーナリスト)
公募団体系とインディペンデント系に二分されている日本の美術界の構造について紹介した前回の「制作基礎知識シリーズ美術編(1)」に続き、今回は「美術館の歴史」について大きな流れを辿ってみた。コレクションが基本の欧米の美術館に対し、なぜ日本ではハコモノが中心になったのか。美術館の現状を理解する上でもその歴史的な背景を知っておく必要があるだろう。
●美術館はコレクションから始まった
美術館とは英語でいえばMuseum of Art、またはArt Museum。直訳すれば「美術博物館」となる。この「ミュージアム」の語源が、ギリシャ・ローマ神話の学芸を司る女神ミューズ(ムーサイ)に由来し、その最初の例が、紀元前3世紀アレクサンドリアに建てられたムーセイオンであることは、美術館関係者ならご存じだろう。しかしながらこのムーセイオンは、現在の美術館や博物館とは趣を異にしており、巨大な図書館を備えた、今でいう国際的な学術研究センターのようなものだった。
近代的な美術館の萌芽は、ルネサンス以降に現れる。すなわち、古代美術への関心が高まり、王侯貴族たちが美術品を収集し始めたのがそのルーツである。初めにコレクションありき、なのだ。もっとも当時のコレクションは美術品だけでなく、貨幣、武具、遺跡の断片、鉱石、動植物の剥製など珍しいものならなんでも集め、ヴンダーカマー(驚異の部屋)として陳列していたという。
だがそれは、あくまで王侯貴族の個人的な所有物であって美術館とはいえない。コレクションが美術館になるためには、一般市民に公開されなければならない。この一般公開の原則を促したのが、18世紀の啓蒙思想とそれに続く市民革命だった。こうして18世紀末からルーヴル美術館、プラド美術館、エルミタージュ美術館といった名コレクションを誇る大美術館が次々と開館していくことになる。雑多な展示品も、歴史や社会科学の発展とともに次第に体系化され、時代別、地域別、ジャンル別に分類・整理されていった。
これらの美術館は、王侯貴族の宮殿をそのまま再利用したものが多く、また展示も、すでに価値の定まった古典美術の常設が中心だった。まさに「美術博物館」と呼ぶにふさわしい。建築家の磯崎新はこれを「第1世代の美術館」と位置づけたが、20世紀に入ると「第2世代」ともいうべき、印象派以降の同時代美術を扱う近代美術館が登場する。近代美術館の特徴は、いかなる作品も同じ条件で展示できる均質な空間「ホワイト・キューブ」を基本とし、常設コレクションだけでなく企画展示にも力を入れることだろう。その代表的な例が、ニューヨークの近代美術館(MOMA)、ホイットニー美術館、パリのポンピドゥー・センターなどである。
さらに近年、空間そのものを作品化するインスタレーションにも対応すべく、「第3世代」の現代美術館も登場してくるのだが、少し先を急ぎすぎたようなので、今度は展覧会の視点からもう一度振り返ってみたい。
●展覧会は芸術家の主張の場
展覧会が開かれるためには(美術館もそうだが)、作品が持ち運び可能でなければならない。ラスコーの洞窟画に始まり、モザイクやフレスコによる壁画、浮き彫りなど、ルネサンス以前の美術はほとんど建造物と一体化しており(第1世代の美術館のコレクションの多くは、それらを元の場所から引き剥がしたものだ)、また画家や彫刻家も、注文があればその地に赴いて制作する無名の職人だった。したがって、ルネサンスの時代まで展覧会という形式はありえなかった。
ところが、14世紀に油絵が発明され作品が持ち運べるようになると、その場に出向いて制作する注文生産だけでなく、あらかじめ売れることを見込んで描く商品生産が始まる。特にそれが盛んだったのがオランダであり、そこから画商という仲買人も生まれた。こうして17世紀頃には、商品としての作品が市や街頭に並べられるようになった。それを展覧会とは呼べないにしても、少なくともその発端には、自分の名と作品を売りたいという芸術家の社会的・経済的理由があったことは間違いない。
同じく17世紀のフランスでは、アカデミーの会員によるグループ展が始まり、18世紀にはルーヴル宮殿のサロン・カレ(方形の間)を展覧会場とするようになった。ここから広く公式の展覧会のことを「サロン」と呼ぶようになる。18世紀末の革命後には、アカデミー会員以外にも門戸が開かれ、審査制が導入される。いわば公募展のはしりだが、審査員の大半はアカデミーの会員に限られており、それが保守的な芸術家と革新的な芸術家の対立を深める引き金になった。それを象徴する事件が、1863年の「落選展」である。
その年のサロンはいつになく審査が厳しく、落とされた画家たちから不満の声が挙がっていた。それを聞きつけた皇帝ナポレオン3世は、落選した作品ばかりを集めて展覧会の開催を命じ、一般の人々に判断をゆだねる。そこに出品されたマネの『草上の昼餐』は、アカデミックなサロン絵画に見慣れた人々の間にスキャンダルを巻き起こした。結局、今では、マネのほうが歴史に燦然と輝き、サロンの画家たちは「ポンピエ」(陳腐な画家)として忘れられているのである。
それに先立つ1855年には、クールベが、パリ万博に出品を拒否された作品による個展を万博会場の向かい側の建物で開き、1874年からモネやルノワールら印象派によるグループ展が、1884年にはスーラらによる無審査・自由出品制の「アンデパンダン展」が始まった。いずれもサロンやアカデミックな美術に対抗する目的で組織された展覧会であることに留意したい。
こうして19世紀後半には、革新的かつ確信的な芸術家たちがサロンを反面教師として自主的に展覧会を企画し、近代美術の歴史に名を刻んでいくことになる。付け加えれば、それ以降の前衛たちはサロンだけでなく、美術館を含めた保守的な旧体制に異議申し立てを行うことで、20世紀美術推進の原動力とした。つまり、前衛たちは美術館をはみ出す作品をつくることで芸術概念を拡大し、美術館はそれを取り込もうとして第2、第3世代の美術館を生み出していったというわけだ。
●中身の伴わない日本の美術館
日本に目を向けると、もちろん正倉院や社寺の宝物殿や書画会の類は昔からあったものの、ヨーロッパほどの物量を誇るコレクション熱もなければ、市民革命も新旧の闘争もないまま明治維新を迎え、欧米の美術館や展覧会の形式だけを流用していった。それが、前回も触れたように、コレクションもないのに建物だけで美術館と称したり、日本のサロンともいうべき公募団体展が幅を利かせる事態を招いたといっていい。
それはさておき、日本の美術館は1872(明治5)年、湯島聖堂で開かれた博覧会に端を発する。この博覧会は、翌年のウィーン万博への参加準備を兼ねて、全国から古器旧物や剥製、標本などを集めたもので、しかも一時的な展示にすぎなかった。これが東京国立博物館の前身というから少々心もとない(*)。その後、国立博物館は奈良と京都にも設けられ、私立では大倉集古館、大原美術館、公立では東京府美術館(現東京都美術館)、京都市美術館などが誕生したものの、戦前までにようやく10館を数えるほどだった。
爆発的に急増するのは戦後、しかもここ20年余りのことである。51年に博物館法が制定され、神奈川県立近代美術館、国立近代美術館(現在東京と京都に1館ずつ)、ブリヂストン美術館、国立西洋美術館といった主だった美術館が相次いで開館。70~80年代には県制・市制100周年の記念事業として、バブル景気の追い風も受けて、全国に雨後の竹の子のごとく林立する。96年3月31日現在、その数686館。戦後、10年ごとにほぼ倍増してきたことになる。
美術館が増えることは歓迎すべきだが、急激な変化は時に物事の本質を見えなくさせる。確かに20~30年前に比べれば美術館を巡る状況は良くなってきているとはいえ、増えた数ほど質が向上したとは思えない。まだまだコレクションも企画展を組織する学芸員という人材も、それらを賄う予算も十分とはいえないのが現状だ。特に悲惨なのは、何度も繰り返すようだが、建物だけ建てれば美術館として事足れりとするハコモノ行政であり、レストランなどの付帯施設ばかり充実させるアミューズメント志向である。外見が立派であるほど、中身の貧弱さが浮き上がってくる。美術館の使命は基本的に良質のコレクションおよび企画展示を見せること、これに尽きると思う。
* 湯島で開かれた博覧会の事務局はその後、内山下町(現在の内幸町)に移って博物館と改称され、1882(明治15)年に上野公園に博物館新館が開館。所管も文部省から内務省、農商務省を経て1886(明治19)年に宮内省に移管され、名称も帝室博物館となった。こうして殖産興業政策の一環としての博覧会=博物館から、歴史美術を中心とする博物館へと発展していく。その後、帝国博物館と改称され、奈良、京都にも設けられたが、再び帝室博物館に戻り、1947(昭和22)年に文部省所管の国立博物館として再出発した。
●主要参考文献
「博物館学講座2 日本と世界の博物館史」 雄山閣出版
「現代美術館学」 昭和堂
「芸術学ハンドブック」 勁草書房
「土方定一著作集1 呪術師 職人 画家と美術市場」 平凡社
「NAGI MUSEUM OF CONTEMPORARY ART」 奈義町現代美術館
高階秀爾「芸術のパトロンたち」 岩波新書
イアン・ダンロップ「展覧会スキャンダル物語」(千葉成夫訳) 美術公論社