講師 坪池栄子(文化科学研究所プロデューサー)
●さまざまなジャンルの併存
日本の演劇界は、明治以降の世の中全体がそうであったように、急速な近代化や欧米化の流れに乗って、歌舞伎に反発して新派が生まれ、歌舞伎・新派に反発して新劇が生まれ、新劇に反発して小劇場が生まれるといったように、それまであった演劇への反発を繰り返しながら、別の集団・表現をつくることで動いてきたところがある。
こうした歴史的な経緯のため、日本では、一口に演劇といっても、古典から商業演劇、新劇、小劇場、舞踏、教育活動として行われている高校演劇など、さまざまなジャンルが併存しており、これらの領域の間の関係が希薄で、ほとんど相互交流がないのが現状である。
今回は、演劇公演を実施する前提として、こうした複雑な演劇界の流れを概観しておきたい。
●すべてのはじまりは明治
日本の商業演劇のルーツは、江戸時代に成立した歌舞伎である。当時の歌舞伎は、幕府公認の歌舞伎小屋(江戸三座)が、一大風俗街、吉原の隣の猿若町に集められていたのでもわかるように、民衆娯楽としてかなりきわどい表現をする色っぽいものだった。
それが明治政府となり、外国にも誇れる高尚な演劇にしようと、歌舞伎の改良運動が始まる。一方、洋行帰りのインテリたちは、先進国であるヨーロッパ近代劇の方が進んでいる、それを日本でもやろうと、翻訳劇の上演を思いたつ(新劇の始まり)。
また、政・財界人たちは、日本にもパリ・オペラ座のような劇場をと、日本初の西洋劇場、帝国劇場を建設する。しかし、ご存知のように歌舞伎には女優がいない。帝国劇場の活動は、俳優養成所をつくり、女優を育成するところから始まった。
こうして、現在に至るさまざまな演劇の系譜が、明治時代から一斉に枝分かれを始める。考えてみると、今からわずか100年前は、演劇というと歌舞伎のことだったのである。この大きくもの凄く変わったが、演劇の世界も、同じ様に激変していたのだ。
当時の劇場でも残っていれば、こうした演劇の歩みに思いをいたすこともできるのだろうが、火事と喧嘩は江戸の華というぐらいで、江戸時代の芝居小屋は次々と焼失し、明治以降の劇場も、関東大震災でほとんど失われてしまった。現存する劇場で、明治・大正時代の面影を残しているのは、日本各地に十数カ所残っている芝居小屋と、都内では三越劇場(1927年開場)、日比谷公会堂(1929年開場)ぐらいのものである。
消えてなくなるのが演劇の醍醐味であり、宿命なのだが、日本の演劇界が歩んできた道をたどる術がないのは残念なことである。
●新劇から小劇場へ
歌舞伎・新派というジャパニーズ・スタイルの演劇に対し、ヨーロッパの近代劇(戯曲、リアリズムという演技スタイル)を学んで発達したのが、いわゆる新劇である。
当初、翻訳劇の上演とリアリズムの演技ができる俳優の育成を目指してスタートした新劇運動は、第一次世界大戦後の労働運動の影響を受け、急速に政治色を強めていく。
第二次大戦後には、こうしたプロレタリア演劇色も次第に後退し、俳優の演技についてアカデミックに追求する(俳優座の語源)、あるいは戯曲の芸術性を重視する(文学座の語源)といった、現在の大手新劇団にみられるような活動へと移っていく(ちなみに、労働組合が劇団を結成して公演を行う職場演劇、高等学校・大学における学生演劇がスタートしたのはすべて戦後のことである)。
1960年代、現代演劇を志す者は大手新劇団でリアリズム演劇をやるしかなかった時代に、既存の新劇に飽き足らなかった若い演劇人たちが劇団から飛び出し、また、当時、多彩な才能を擁していた学生劇団のリーダーたちが、自分たちの思想を表明し、表現を追求する場として次々に小劇団を旗揚げしていった。これが、現在につながる小劇場演劇のはじまりである。
小劇場演劇のつくり方で最大の特徴は、新劇では分業だった劇作家、演出家、俳優を、強烈な個性と才能をもった思想的なリーダーが兼任していることにある。俳優を兼任しない場合は、リーダーの演劇思想を体現した、デモーニッシュでカリスマ性のある俳優が必ずいる。
小劇場には、こうした他人に絶大な影響力をもつリーダーが多く、一国一城の主として、自分たちの集団にしかやれない特異な表現スタイルをいくつも生み出してきた。80年代には、反体制運動であり、反新劇運動だったころのパワーがなくなり、世代も代わって、強烈な個性が出にくくなったが、その時代の若者の感性を代表する才能が、自作、自演で新しい芝居へのチャレンジを続けている。
●翻訳ミュージカルの歩み
現在の演劇界で人気のある演目にミュージカルがある。ロングラン公演も当たり前、ブロードウェイの話題作がすぐ日本版で見られるのも当たり前。すっかり日本人の生活の中に定着したように見えるミュージカルも、『屋根の上のヴァイオリン弾き』が、初演では赤字という苦難の時代があった。
日本で初めてミュージカルと呼ばれるものを手がけたのは、興行会社の東宝である。50年代には「帝劇ミュージカルス」「東宝ミュージカル」と称し、オリジナル作品づくりを目指したが、成功にはほど遠く、本場ものの翻訳ミュージカルの上演へと路線を変更する。
その第1弾が、今から35年前、1963年に、当時の人気タレント、江利チエミを主役に起用し、菊田一夫が演出した『マイ・フェア・レディ』だった。これが大成功し、以来、東宝は果敢にミュージカル上演を続けるが、採算のとれない状態が続いたという。
そこに登場するのが、浅利慶太である。
浅利は、小劇場の第1世代より10年も前に、既存の新劇界に反発し、1953年に劇団四季を結成した新劇界の反逆児である。第1世代同様、強烈な個性とカリスマ性をもって、興行界で強力なリーダーシップを発揮していく。
日生劇場のプロデューサーだった時、開場1周年記念事業として、日本初のブロードウェイ・ミュージカル『ウェストサイド・ストーリー』(64年)の招聘を実現する。ミュージカルの可能性に気づいた浅利は、専らフランス近代劇を上演していた四季で、ダンスレッスンをはじめる。
そうしてできあがったのが、72年に越路吹雪の主演で上演した四季ミュージカル第1号の『アプローズ』である。以来、『イエス・キリスト=スーパースター』(73年)、『ウェストサイド物語』(74年)、『コーラスライン』(79年)などを次々に上演し、四季ミュージカルのレパートリーを増やしていく。
徐々に盛り上がってきたミュージカルの機運がブレークしたのが、82年である。東宝の『屋根の上のヴァイオリン弾き』6カ月公演完売、来日ミュージカル『ダンシン』完売など、ミュージカルはどこも観客で一杯だった。
翌83年、四季が仮設の専用劇場を建設して、初のロングラン公演に挑んだ『キャッツ』が、社会的な事件となる。専用劇場、コンピュータ・チケット販売、スターを使わないキャスティングにより、四季は、独力で、日本にブロードウェイ並みにロングランできる環境をつくりだしたのだ。
このプロジェクトを足がかりに、四季は、日本で最も有名な劇団になり、日本屈指の興行会社へと発展していく。
こうしたさまざまな歴史が積み重なって、現在の演劇界ができあがっている。公共ホールが演劇公演を行う場合、これだけ背景の異なる人々が交渉相手であることに留意しておく必要がある。最近では、団体、世代を越えたプロデュースものが多く企画されるようになってきたが、それも、ここ10年ぐらいの傾向にすぎない。観客のニーズに対応することも必要だが、演劇界にはこうした流れがあることをおさえておきたい。
●演劇ミニ知識
●歌舞伎
異様な振る舞いや風体を指す「傾く(かぶく)」が語源。江戸初期に出雲の阿国が京都ではじめた「かぶき踊り」が始まりとされる。風俗取り締まりで女芸人の出演が禁止され、女形が生まれたことにより、様式性の濃い演劇として発展。江戸で1714年からは幕府公認の劇場として興行を許されたのは、中村座・市村座・守田座の江戸三座だけであった。
●新派
歌舞伎に対抗して発達した演劇ジャンル。明治中期に自由民権思想の宣伝のために行われた壮士芝居が始まり。次第に新聞ネタに題材をとった現代劇を上演するようになり、大正時代に入って『金色夜叉』『不如帰』で新派悲劇のスタイルを確立。
●新劇
歌舞伎・新派劇に対抗してヨーロッパ近代劇の影響を受けて発達した演劇ジャンル。明治政府による歌舞伎の改良運動と翻訳劇の上演を目的に結成された自由劇場(1909~19)が始まり。当初は歌舞伎役者が出演していたが、1924年にヨーロッパ近代劇の上演を行う常設劇場として築地小劇場がつくられ、リアリズム演劇ができる俳優の養成を始めたのが今日の新劇の基礎となった。代表的な劇団は俳優座(1944年創立)、文学座(1937年)、民芸(1950年)。
●小劇場運動
新劇に対抗して、1960年代の安保闘争を背景に、反体制を掲げて生まれた演劇ジャンル。当時は貸ホールを借りて公演するのが普通だったが、小劇場の草分けである自由劇場が、「劇場を持ち、劇場を維持することで新しい表現が生まれるのではないか」と六本木のガラス屋の地下に「アンダーグラウンド・シアター自由劇場」をオープン。早稲田小劇場、天井桟敷なども自前の小劇場をもったことから、彼らの演劇活動を指して「小劇場運動」と呼ぶようになる。60年代に劇団を結成した第1世代(唐十郎、鈴木忠志、蜷川幸雄、寺山修司、佐藤信ら)、70年代に第1世代の影響を受けて演劇活動をはじめた全共闘世代の第2世代(つかこうへい、山崎哲ら)、80年代に学生劇団を母体として生まれ、若者文化としてもてはやされた第3世代(野田秀樹ら)に分かれる。
●舞踏
1959年、当時31歳だった土方巽(ひじかたたつみ)が、全日本芸術舞踊協会新人舞踊公演で『禁色』を発表したのがはじまりとされる。三島由紀夫の同名小説をモチーフに、少年が股で鶏を絞め殺し、暗闇の中で男が少年を追いかけるというこの作品は、既成の舞踊が拠り所にしてきた一切の方法を捨てても踊りが成立することを示してセンセーションとなった。70年代には、土方を中心とした暗黒舞踏派、天才的舞踏手である大野一雄の即興舞踏派、笠井叡の天使館派の3派が軸となり、72年に麿赤児が大駱駝艦(山海塾として国際的に活躍する天児牛大が所属)を結成するに至って、「白塗り、がに股、坊主、白眼」の異形の踊りが、舞踏の一般的なスタイルとして知られるようになる。国内よりも「BUTOH」として海外での評価の方が高い。